NPO法人 視覚障がい者国際協力協会(ICA)

視覚障がい者の自立を目指して

あいか通信79号(2015年3月号)

              16年ぶりの便り

                             理事長 金治憲 

 東京に桜の開花宣言が出たとたん、再び寒波の到来です。今日は文字通りの花冷え、この季節、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。

 私事で恐縮ですが、うれしいことがありました。 今からちょうど20年前、中国からの盲留学生として受け容れた李雁雁(リ・イェンイェン)君から、16年ぶりに彼の著書と共に便りが届きました。便りによると、日本で三療を学んだ後、アメリカへ行ったのですが、中国へ帰国していました。

 失明した自分に、教育を受ける機会を与えてくれたことに深く感謝している。このことは、家族ともども永遠に忘れない ― あなたの生徒より と、あります。そして20年後の自分を是非見に来て欲しい、出国後20年を記念して、20年前の2月24日私と一緒に離陸した上海空港に、その同日に到着して欲しいと言うのです。確かに、彼の著書の中に、上海空港で、彼と見送りに来た彼のお兄さん、友人の呉君、私の4人が並んだ写真があります。なるほど、気持ちは解りますが、私は既に2月19日の旧正月に韓国の実家に帰ることになっていたので、この日程には応えられず、あらためて4月に妻と行くことにしました。16年後の再開が楽しみです。

日本に戻ってきたら、また、皆さんに様子をご報告したいと思います。

************************************

 

         受講生たちの今  ~ ノーラ ~

 ノーラさんは37歳の女性、2004年からの受講生です。緑内障のため3歳で失明しました。キシで生まれ育ち、ティカ盲学校で高校生活を終え、その後ナイロビに来てKSB(ケニア盲人協会) で電話交換手になるための訓練を受けましたが、仕事にはつながりませんでした。そんな時、あん摩講習会が開かれることを知って、受講生募集に応募したのです。

 第二プロジェクトがスタートしたその少し前に、バス停で事故に遭い、足の脛を骨折、最初の講習の時は入院中でした。受講生たち皆と、ナイロビ市内のケニヤッタ大学病院にお見舞いに行ったことを思い出しました。治療後も、骨折したところが痛いと言って、一度キム先生のハリ治療を受けていましたが、ただの骨折なのに、脛の真ん中あたりに怪我の場所が傍目にもはっきりわかるような跡があり、ちゃんと治っているのかと心配になるほどです。

 普段、受講生たちの中にいると、物静かですが、1対1になると、よく透る明るい声で元気に話します。

 2012年にJICAの委託で実施した第2プロジェクトが終わると、2013年のフォローアップ講習からは早速資金不足となりました。受講生たちが自宅からやって来る交通費も、それまでの様に全額出せなくなりました。一人一人に説明をして交通費を渡していた時のこと、ノーラさんに説明をすると「大丈夫です、先生たちは遠い日本からたくさんのお金と時間を使って、教えに来てくれるのに、私はナイロビ市内から来るのですから、心配しないで」と言うのです。受講生たちの中では、どちらかというと、決してたくさんのクライアントがいて多くの収入を得ている方ではないのですが、こんな風に、彼女は人をホッとさせてくれる気持ちの優しい人です。

 また、彼女はあん摩の収入で生活できるようになったことを、よくに口にします。3年前だったでしょうか、お父さんを亡くしました。「父がガンで亡くなったのですが、あん摩で得たお金を貯金していたので、最後までちゃんと病院で治療を受けさせることができてほんとに良かったと思います。あん摩のおかげです。」 と。

 今年1月のケニア訪問で会った時には、「昨年12月、姉が突然亡くなった」と寂しそうでした。お姉さんと助け合って暮らしていたのでしょう。今は、姪と身体障害のある姪の友人とで暮らしています。姪はケニヤッタ大学を卒業して、今仕事を探しているとのこと。ケニアでは晴眼者でも仕事をみつけるのは大変そうです。お姉さんが健在の時は、お姉さんもホテルでメイドとしてアルバイトをしていると言っていましたが、今はノーラさんのあん摩と家で炒ったピーナッツをスーパーマーケットに出すことで収入を得ているということでした。会いに来てくれる時は、いつも炒りたての香ばしいピーナッツを持って来てくれます。

 話していると、彼女の家にはいつも家族以外の誰かが居るようなのです。以前にも受講生仲間のマーガレットさんが、マサイ・マラのホテルの仕事を失くして、講習終了後もしばらくナイロビに留まり、あん摩の仕事を探したい、と言った時に、ボメットのような田舎から来て、いきなりナイロビで白杖を頼りに歩くのは無理ではないか?住む所はどうするの?仕事もそう簡単に見つかる状況ではないし、もちろん家賃なんか払えないだろうし・・・と、私の頭の中で心配の種が大きく膨らんで来たその時、「マーガレットは私の家に来ます」と、ノーラさんの一言。そのとたん、心配の種が音を立てて萎んだ様な気がしました。

「ノーラの家には誰でも居ていいのか?」とキム先生が尋ねると、「ただし、女性限定です」と笑って答えていました。

彼女のあの明るさ、おおらかさ、信仰心の澄んだ心根を思うと頭が下がります。何時までも、そのままで生き抜いて欲しい、と、願わずにはいられません。

                            (事務局 森山)

 ************************************

 

         ⑨ ボランティア活動 3 IMCU(続)

                               山平 健人

 2011年11月に衝撃的なニュースを聞きました。IMCUが支援している家族が多く住んでいるミツンバスラムをケニア政府が強制撤去したというのです。大変驚きIMCUのホームページを確認したところ、スラムは本当に撤去され、住民はそれぞれ別のスラムに移ったり、親戚のいる地方の村に移ったりしているようです。IMCUが支援していた子供たちの中にも行き先が分からなくなってしまった子供も少なからずいるようです。

 IMCUは現在、チャイルドドクターと名前を変えてケニアで活動しています。IMCUでの宮田さんの活動はNHKなどでも紹介され、多くの方々に支援をいただいているようです。 ご興味のある方は、チャイルドドクターとインターネットで検索していただくと、詳しい活動内容や支援方法などを確認いただけます。

 また、最近はケニア国内でテロ活動が活発になってきているようで、スラムの子供たちはもちろん、現地で活動されている多くの方々の安否が心配です。政治的な意見の相違があるにせよ、暴力に訴えるという手段は許されるものではありません。テロのニュースを聞くたびに、何よりもまず、暴力におびえずに暮らせる世の中を作ることの大切さを痛感します。

              

             ケニアの日常生活

 さて、ここからはケニアでの日常生活についてお伝えします。といっても私がケニアにいたのは10年以上前ですので、現在では少し様子が違っているかもしれません。良い方向に違いが出ていることを望みますが… 

 私は首都ナイロビなどの都会と、Segaなどの田舎とで活動していたので、どちらの生活も体験することができました。ケニアでも都会と田舎ではかなり生活の様子が違います。

 都会には多くの仕事があり、多くの車が走り、人々が忙しそうに通りを行き来しています。この点は日本とあまり違いはないと思います。町には多くの店があり、10年前でもインターネットカフェなどもあり、私個人としては日本との連絡を取るのに大変助かりました。ただ、インフラ整備はまだまだ不十分で、停電、断水といったことは日常茶飯事でした。また、10年前のケニアでも携帯電話はかなり普及していました。当時はお店でお金を払い、携帯電話で電話をかけさせてくれるという、日本でいう公衆電話のようなサービスもありました。このサービスのお蔭で私は現地で知人に連絡をすることができました。前述の通り、当時ケニアにも公衆電話はありましたが、ほとんど使えないという状況でした。携帯電話などの技術の発達は、インフラ整備の整っていない途上国にとって、今後の発展に欠かすことのできない要素だと実感しました。

 また、都会には大きなショッピングセンターもあります。私は特にナクマットというスーパーマーケットを利用していました。ここに行けばほぼ何でも手に入るというお店です。ナクマットでは日本の醤油なども売っていました。

 また、ナクマットは雑誌に広告なども出していますが、たまたま見た広告は、キャンプ特集のような内容でした。一部の高所得層に向けたものでしょうが、ケニアにもキャンプの需要があるのだということに大変驚いたのを覚えています。日本人の私にとって、ケニア=どこでも大自然、のイメージがあり、あえてキャンプをする人がいるのだろうか?という、一種の偏見ではありますが、何とも変な感覚を覚えました(笑)。    

                             ・・・・・つづく