NPO法人 視覚障がい者国際協力協会(ICA)

視覚障がい者の自立を目指して

あいか通信41号 (2008年11月号)

 

                  ごあいさつ                                           理事長 金治憲

 急に寒くなってきました。先日、福島からの便りでは、すでに20センチの積雪ということです。皆様のところではいかがでしょうか。協会の今年度の目標は、ケニア第2プロジェクトと会員増です。

今年度から実施したいと考えていたケニア第2プロジェクトは、昨年からJICAと引き続き交渉中ですが、来年度に連れ込みそうな状況です。私どもは2004年から毎年ケニアであん摩講習会を続けてきましたが、昨年度はケニア大統領選挙の影響で治安が悪く実施できませんでした。

今年度は、とにかく、第2プロジェクトをスタートさせたいと努力してきましたが、残念ながら前述のように今年度中のスタートは無理でしょう。しかし、協会としては2年続けて講習会を休むことは受講生たちのやる気を削ぐことになりかねない、また、ケニア側のカウンターパートナーからの実施要請もある、そこで今年度は是非講習会を実施すべく、日程を調整中です。

次は会員増の件です。あいか5周年、国際盲人クラブ創立35周年記念事業の一環としてまとめた『盲留学生』の目的のひとつは活動の理解者を増やすこと→会員増でした。出版から1か月足らずのところですが、僅かながらおかげさまで増えつつあります。

『盲留学生』をお読みいただいた皆様には感謝申し上げます。中には、友人へプレゼントするとおっしゃって何冊かご購入いただいた方々もいらっしゃいました。会員増を目指して引き続き一人でも多くの方々にICAとともにこの本を紹介していただければ幸いです。

早いもので今年も恒例の「年末ご寄付」をお願いする月になりました。勝手ながら振替用紙を同封させていただきます。また事務局を通して本をご購入された方々にも送らせていただきますが強制ではありません。

協会の目的をご理解のうえ、一人でも多くの方々からご協力いただければ幸いです。向寒の折、くれぐれもご自愛くださいますよう。

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 『盲留学生』の感想をお寄せいただきました。以下お二人の分をご紹介いたします。

 

          『盲留学生』を読ませていただいて

                          我孫子市 中川照子

 「冒険小説を地でいく爽快感を味わいながら」と解説を書かれた岡村さんがおっしゃったように、私もグイグイ引きつけられて一気に読み終えた。

先生の生い立ち、日本に来られてからの困難の数々を、どうやって乗り越えて世界中の盲留学生のための素晴らしい基盤を作り上げられたかが、今、はじめてよく理解できてうれしかった。

行く手を阻まれるといつも折よく優れた支え手が現れるのは、ひとえに先生の目的達成に向けての強い意志と、人に対する類まれな優しさ、温かさの両方に周囲の人たちが手を差し伸べずにはいられなくなるからだと思う。

私は先生と話していると、その好奇心の旺盛なこと、ポジティブな考え方、行動力に驚嘆する。

一読して、ひとつだけ疑問が残ったので、直接先生に質問した。「どうして講習生にハリを指導しないのか?」と。そして、それぞれの国の法律が壁になっているということを初めて知った。いつの日かその壁が取り払われたらどんなにうれしいことか。

最後に、先生は「なんと日本語の難しいこと!」と言われるが、どうしてどうして、この本は深い内容を素晴らしい日本語を自在に駆使して読みやすく書かれており脱帽です。

一人でも多くの方々が読まれるよう願っています。

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金治憲著『盲留学生』出版によせて

                   和光学園 理事長 石原 静子 

「盲留学生」という表題、黄一色の装幀ともにいささかそっけない感じだが、読みはじめるとぐんぐん引き込まれてやめられない、いわば奇蹟の本である。

著者は第二次世界大戦終了直後の韓国に生まれ、幼時に病気で失明したキムチーフン氏で、外国で学ぶことの難しかった当時に日本留学を果たしたばかりか、続く視障者たちの留学希望を援助、しかもアジアに限らず南米、アフリカにまで対象を広げた。

 現地へ迎えに行き日本に連れ帰ってからは、日本語をはじめ生活慣習等を学ばせたのち、各地の盲学校に送り、アンマ、ハリ、灸の資格を得させた。やがてせっかく得たこれらの技が母国での職業につながらない現実がわかると、国ごとに治療院などを造る働きかけをし、視障者自立への道をひらく。どの国にも共通な障害者への無理解・無視をのりこえる苦労と地道な成果とが、生きた記録として、淡々と述べられていく。

困難にぶつかる度に、共に乗り越えようとする理解者・援助者が増えていく経過は、見ものだ。金氏自身はほとんど徒手空拳だが、その無償の熱意と人柄が接する人々の心に眠る何かを呼び覚ますのだろう。

彼が来日してまず学んだ盲学校の師友をはじめ、多くの人の自主的な援助を得て、この民族・国籍を超えた視障者自らによる支援事業は、徐々に温かい波となって広がりつつある。人類の未来に関する窮極の信頼が、彼を介して輝き出る感さえするのだ。

ところで私はというと、とりたてて彼の理解者協力者だったわけではない。彼が盲学校で三資格を得たあとも日本にとどまり、やがて和光大学に進学したことで生じた、いわば成りゆきによるつながりである。

昨今と違って大学旧来の権威といったものがまだ生きていた当時、身障者に門を開く大学は皆無に近く、また韓国を含めアジア系の学校は長らく各種学校扱いで、高校を出ても大学受験できなかった。そんな中でこの二件ともに門をひらいた稀有の大学だったことが、金氏と和光の間に絆を生じた。

初代学長 梅根悟は、「戦後初めて大衆のものになった大学のあり方を基本から考え直す必要」を主張し、「ハンデのある子ほど行き届いた教育が必要」と唱える教育学者だったのだ。

「盲留学生」と私の個人的なつながりは、彼が卒業し、やがて私も定年退職後の二〇〇一年春に、改めて生まれた。

大衆にひらかれたあるべき姿を求める実験大学の実像を、めぼしい卒業生たちの現況を訪ねデータとすることによって検証したい、と思い立った私は、各年代にわたる約百人の一人に、彼を選んだのだ。

インタビューは当人の日常的活動の場で、が原則で従って彼の場合は、「国際視覚障害者援護協会」と表示した小さな会館に私は赴いた。録音機器等はいっさい使わず対話メモをすぐ文章にして本人に送り、遠慮のない加筆修正を求めるルールで一貫したから、以下の引用はそのとき本人も認めた確かな事実である。

この時の説明で私は初めて、彼の仕事の全貌を順序立てて知ることができた。まずアジア、アフリカ、南米にわたる二〇数カ国の関連施設に「英語の点字・墨字の募集要項を置く」ことから始まる。「書類審査を通った留学候補者の居住地にこちらから行って面接をし…日本の点字の初歩を教える。

…当地の日本人や日本語を解する人を捜して、一年間現地での日本語学習指導を依頼…一年後に再び出向いて本人の意思、学習の進み具合をチェック…出国・留学手続きを指導…平行して日本での受け入れ盲学校と交渉、入国入学手続…迎えに行って日本へ同行…」と、「合わせて三回、同じ現地に行く」。

この手間と苦労を彼は黙々とこなし、日本に連れ帰った後は日本語・生活習慣、電車の乗り方など大小多様な指導・訓練が続く。スタッフ、援助者の多様な支えのなかで。

 この会館には男女別の居室があり、「寝具、諸内装とも新しく清潔…ちょうど今日の勉強に一区切りついた時刻で…階下の食堂で現寮生とおやつを共に」した。

自己紹介で、女性三人はそれぞれ「ベトナム、ケニア、韓国、黒一点の彼はモンゴル出身…。ごく普通の会話内容・速度での日本語を四人とも理解し、応答もできることに一驚…。私が『キム先生の大学時代の先生』と名乗ったせいで、彼の往時に質問が集まり、「今日はキム先生を試験する日、と皆がはしゃぐ」。

やがて「故郷の親の話から、『キム先生は日本のお父さん』と明るい発言に、皆がうなずいた。…黙りがちなケニアの女子学生に、『日本は寒いでしょ』と問いかけと、はにかんだ微笑でうなずき、肩を震わせる身振りで答えた」云々と記録にある。

こうして、大学は威信にこだわるバベルの塔ではなく、また個人も民族を超えた一人一人の幸せを視野に、日日の営みに励むことができるのだ。