NPO法人 視覚障がい者国際協力協会(ICA)

視覚障がい者の自立を目指して

あいか通信35号(2007年11月号)

               11月23日

                         理事長  金 治憲 

寒い日が続いていますがお変わりありませんか。

協会の今年度事業でありますケニアの講習会につきましては、あん摩に関連する基礎医学の教材を宮城県立盲学校の宇和野康弘先生に執筆を依頼して英訳も進んでおります。

肝心の講習会ですが、ケニアの大統領選挙の関係で予定していた冬休みには行うことが無理との現地からの連絡が来ています。開催時期につきましては現地と連絡を取り合いながら決めたいと思います。

1123日は日本では勤労感謝の日です。

私にとってこの日は今から36年前の19711123日、これは「あいか」の前身であります「国際盲人クラブ(略称ICB)」の創立記念日であります。当時日本で勉学中の盲留学生4名(台湾2、香港と韓国各1)が故松井新二郎先生宅に集まり、来日時の苦労話をしました。話の内容は異口同音に、言葉が通じなかったせいで起きた誤解や珍事の数々。ある人はバスに乗った時運転手さんに「〇〇で降ろしてください」と言うべきところを「〇〇でコロシテ下さい」と言ってしまい困った。と言うのは自分の日本語がまだ下手で、その上周囲の人々の表情も見えないので、初めのうちは間違って言ったことさえも気が付かなかった。

留学と言うのは、見える人にもそう簡単な事ではないと思いますが、私ども視覚障害者にとっては並大抵の事ではありません。目が見えれば例え言葉が分からなくても見様見真似である程度の事は理解できますが、見えない私達は全てを言葉に頼る以外方法はありません。

今はパソコンのお陰もあって点字の辞書も少しは出ていますが、当時は皆無といっても過言ではありませんでした。一つの単語の意味を知るためにどんなに時間を費やしたか分かりません。私も盲留学生に“井戸”の意味を解らせるために1時間近く汗だくになって取り組んだことがあります。

この時季めったに日本にいないのですが、今年は10月に義母が亡くなり、七七日の法事が行われるので急遽予定を変更して日本にいます。そこで創立日の事を振り返ったり今までご支援くださった方々を思い出したりしています。その方々への恩返しのためにも、視覚障害者国際協力協会の目的でもあります「自立できる視覚障害者を一人でも多く育てる」に向け引き続き微力を注いでまいります。

今年の1123日までには何とか新しい本(盲留学生と私との35年間)を手にしたいと思っていましたが、出版社の事情等で残念ながら間に合いませんでした。良い報告ができるまでもう暫らくお待ち下さい。

ケニアの事業や会員増などを行っていくためには、労力とともに財力も必要であります。事務局は労力の確保とともに経費の節約に努めておりますが、一人でも多くの方からの財政的なご協力「年末ご寄付」を切にお願いいたします。勝手ながら全員の方に振替用紙を同封させていただきました。

福島県の知人の話では「もう雪が30センチも積もっている」との事でした。今年の冬は寒くなりそうです。皆様お風邪などひかれませんように。

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                お知らせ

☆ 年賀状等書き損じハガキがありましたら、協会事業のためお送り下さい。これは「あいか通信」発送等に使わせていただきます。

☆ 前号各ページ上部の数字に誤りがありました。増刊通巻1101を誤って1001と表記してしまいました。訂正してお詫びいたします。

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           闘病日誌 癌との付き合い(3

                            荒木久子(事務局)

(続き) 

平成18329日。遂に手術の日を迎える。6時半に栄養剤、鉄剤、抗生剤の点滴を受け、8時までにトイレ4回、浣腸1回を終え、8時半に手術着に着替え9時に手術室へ。

8時から来ていた妹は、私がストレッチャーに乗せられ手術室の前で私の手を握って「ガンバって!」と言う積もりでいたのに、看護師さんに「ご家族の方はお部屋でお待ち下さい」と言われ、私は看護師さんと一緒にさっさと歩いて手術室へ向かった。拍子抜けした妹(テレビの見過ぎかな?)。

前日先生から2時間ぐらい掛かりますと言われたので部屋で待っていると、予定よりかなり早い時間に看護師さんから「ご家族の方だけ手術室へ」(この時友人も来ていた)と促され、ドキドキしながら手術室へ向かう妹。

あまり早いので“もしかしたら開腹したものの手遅れで「このまま閉じることにします」と言われるのではと目はウルウル”。ところが手術着の先生は顔のあちこちに血飛沫が付いていて「お姉さんの大腸癌は綺麗に取りましたよ」と30センチくらい切り取り、開いて56センチに成長していた大腸癌を見てホッとして涙が止まらなかったそうだ。心情はよく解る。

2時間で終わり、今度はストレッチャーでハイケアルーム(看護師さんたちが居る隣の部屋)へ。麻酔は直に覚め吐き気がひどく痰も良く出た。夕方には別の友人が来てくれた。吐いたりしていたのでよく覚えていない。2日目には歩いて病室へ。何日かは吐いたり熱が出たりで苦しんだが、3日目にはガスも出てお茶から徐々に口にし、おもゆ、5分粥、全粥(おかず付き)と続き、4月8日(術後10日目)にはご飯になった。妹は5日後に帰っていった。

421日に退院するまで毎日お見舞いに来てくれた友人。2日か3日に一度洗濯物を取りに来て、また持って来てくれた友人(家から病院まで1時間半くらい掛かる)。そのほか何人かの友人が入れ替わり立ち替わり毎日誰かしら来てくれた。本当に言葉に尽くせない感謝の気持ちで一杯である。

洗濯を一手に引き受けてくれた友人は退院後も週に何日か来て、掃除や選択、食事の準備などやってくれている。神様が私に使いを出されているとしか思えない。彼女は以前の職場の同僚で現在は2人の成人したお子さんを持つ主婦である。忙しい家事の合間に(私が優先だと思う)来てくれる。彼女のほかにも23人が時々来てくれている。本当に有難く申し訳ない気持ちで一杯だが、今は甘えることにしている。

このようにして大腸癌の摘出手術は成功し徐々に回復しているが、問題は肝臓癌。手術では取り切れないほど肝臓に無数に点在している癌。抗がん剤に頼る他方法は無い。

お腹の上から手で触れるほどの56センチの物から、小さい物まで画像で数えることもできないくらい。幸いなことにその年の1月に厚生労働省から認可された“オキサリプラチン”(この薬を認証してもらうべく自らも肝臓癌と戦いながら勝ちとったもの。その方は当時保険が適用されず。自己負担で135万円くらい。それを月2回。それに東京の病院でしか受けられず、飛行機代等1ヶ月に100万円もかかった。地方のテレビ局のカメラマンをされていたが退職せざるを得なくなりきつい経済的負担が重く伸しかかった。ただ残念なのは、平成181月の承認を確認する事無く前年の6月に永眠された。その方に感謝しながら投与を受けている。現在は保険も適用され、抗がん剤も二つあわせて7万円ぐらいである。

退院前に1度投与を受けた。これも劇的に効果を表している吐き気止めを30分間入れ、その後抗がん剤のオキサリプラチンと細胞活性剤を同時に点滴注入(約3時間)。その後もう一つの抗がん剤5-Fuとブドウ糖を同時に注入。これは最初15分間150ミリだけ点滴で入れ、後はポンプと呼ばれるプラスチックの容器の中に風船が入っていてこの中に350ミリの薬が入っているが急激にいれられないので48時間掛けてゆっくりと身体に入れる。これをつけて家に帰り普通の生活ができる。(以前は3日間入院して投与したらしい)。過激な行動を除けば入浴もできる。

3日目の午前中には中の風船もしぼみ、それを確認して自分で針を抜いて病院へ返しに行く。この1サイクルを2週間に1度受ける。他の方は腕に針を刺しそこから注入されているが私は点滴の針が入りにくいので、右の鎖骨の下に中継ポートと言うものを埋めてもらっている。4月から始めて11月までほぼ2週間に1度投与し腫瘍マーカー値が下がってきたので中止した。腫瘍マーカー値は最初5万くらい(正常値は5以下)あったが、大腸がんを摘出した時点で三万五千になり、11月には500にまで減った。この後肝臓の一部摘出手術へとなる。 (続く)