NPO法人 視覚障がい者国際協力協会(ICA)

視覚障がい者の自立を目指して

あいか通信28号 2006年10月号

         韓国視覚障害者達に青天の霹靂(続き)

2006年8月29日夜、元盲留学生のヤン・ミンシク君から嬉しい電話が入りました。

その内容は8月に開かれた臨時国会に医療法改正案が上程され8月29日に215人中、賛成205、棄権10の多数で可決されました。この改正案では61条に「按摩師」に関する規定を設け、その1項で障碍人福祉法による「視覚障碍人」に按摩師の資格を与えることになりました。とのことでした。

違憲裁判は裁判官3分の2以上の賛成で決まります。2004年の違憲裁判では3分の2に満たなかったので合憲とされました。しかし、2006年の5月25日の判決は3分の2を超えたので、「按摩師」に関する保健福祉部令は無効になってしまい、二人の視覚障害者の尊い命が犠牲になりました。多くの視覚障害者達の戦いにより、按摩師に関する件は堂々と国会を通過した法律として生まれ変わりました。

 

*来年1月18日から21日までの予定で、札幌に於いて韓国・台湾からの視覚障害者達を迎えて交流会を行う予定です。内容は、理療研修センターの見学と、「歩くスキー」と日本の温泉の体験を予定しております。皆様のご参加をお待ちしています。

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               留学して得たもの

                           ロイ ビッショジト

当時ダッカ大学の1年生だった私に夢のようなチャンスがやってきた。それは日本への留学だ。「国際視覚障害者援護協会」の奨学生として来日し、按摩・鍼・灸などを学ぶのだ。言葉や文化の違う全く新しい環境で、今までの勉強と無関係のものを学ぶことの不安はあったが、それよりも多くの夢で胸がいっぱいだった。周りの励ましもあって、結局留学を決心し、1996年の3月に来日した。

来日後、1ヶ月間東京のKF会館に滞在した。日本語の勉強を始め、日本の生活に慣れるため歩行訓練を中心にいろいろな日常生活訓練をしていただいた。

3月下旬に留学生のオリエンテーションがあり、そこで金先生がおっしゃったある言葉を私は今でも覚えている。それは、「あなたたちは観光客ではありません、留学生です。だからしっかり勉強しなさい。辛くて百回泣くよ。」という言葉です。私は改めて留学生の責任と厳しさを実感した。

4月に高知県立盲学校に入学した。バングラデシュで2ヶ月間日本語の勉強をしてきたのだが、実際はほとんど理解できなかった。初めのうちは、コミュニケーションをとれず、ホームシックになったこともあった。しかし、学校の先生方、ホームステイ先の家族や周りの人々のおかげで、日本語が分かるようになってくると、友達と話ができたり、ラジオから流れる野球の実況放送などを聞いたりして、生活が楽しくなってきた。

学習環境は、バングラデシュとは違って、教科書を含めすべてが整っていたので、いっそう勉強に励むことができた。もちろん先生方の熱心な指導ややさしさを忘れることができない。おかげで、理療科の勉強を無事にこなし、筑波大学理療科教員養成施設にも入学することができた。

盲学校時代、盲人野球、盲人バレー、ゴールボールなどのスポーツをすることができた。スポーツ好きな私にとって、これは何よりの楽しみだった。しかし、私は野球が全く初めてだったし、日本語も分からなかったので、ルールを理解するのに苦労した。そんな私を何とか野球を理解させようと思って一生懸命指導をしてくださった先生方がもっと苦労をしただろう。当時、私は非常に疑問に感じていたことがある。それは、私がバッターボックスに立ったら、ピッチャーが3回投げたらアウトになってしまうのに対し、他の人の場合は、5回6回投げてもアウトにならないことであった。心の中で、「おかしいなあ」と思っていた。当時の私は、ストライク、ボールの意味も分からず、何でも振っていたのだ。今になって考えると、自分でも笑ってしまう。

盲学校は、もう一つのスポーツと出会うきっかけになった。それは走ることである。今まで、100メートル以上走ったことの無かった私は、体育の授業で、2キロ走ってくださいと言われた。私は驚き、不安になった。でも、仕方なく、走ることにした。大変きつかったけれど、何とか走れた。毎回走るにつれ、きつさが和らいできた。その後、全国身体障害者スポーツ大会に出場することになり、練習に励んだ。大会が終わってから、もっと長く走りたい気持ちが涌いてきた。それから思い通り、徐々に距離を延ばしていき、フルマラソンを走るようになった。今まで12回フルマラソンを走った。これからもできる限り走っていきたいと思う。

高知のホームステイ先の家族との出会いも私の世界を広げてくれた。なぜかというと、ホームステイ先のお父さんが、エスペランティストで、私はその方からエスペラント語の存在を知った。エスペラント語は世界平和の目的で作られた国際語である。私は来日して2年経って、日本語もある程度自由に使えるようになってから、エスペラント語を教えていただいた。今は、なかなか時間がとれず、ほとんど勉強できていないのだが、また少し余裕ができたらやっていきたいと思う。

東京で、理療科の教員免許を取得後、滋賀県立盲学校に教師として赴任した。教職員住宅に住むことが決まったものの、寄宿舎生活が長かった私は生まれて初めての一人暮らしに戸惑い、不安でいっぱいだった。しかし幸いなことに、自宅(教職員住宅)から学校までは徒歩5分、その周りに飲食店やスーパー、コンビニがあり、生活するにはとても便利だった。それに、周りの人々の支えがあって、一人暮らしも順調にスタートした。彦根にきて2年目になると、知り合いも増えてくる。偶然ですが、滋賀大経済学部にバングラデシュ出身の留学生がいたりバングラデシュに行ったことのある日本人の方と交流を持つことができた。

人間の縁とはなんと不思議なんだろう!私はその交流会で運命の出会いをした。彼女は、盲重複障害者施設で働いていて、海外でもボランティアをしたことがある心の優しい女性である。彼女の家族は私のことを理解してくれて、2004年の5月に結婚することができた。2005年の9月に長男の将人が誕生した。今は、とっても幸せである!

日本に来てもう一つ得たものがある。それは母国の視覚障害者を支援することである。私は来日してからずっと母国の視覚障害者の教育や自立のために役立ちたいという夢を抱いていた。彦根に来て出会った仲間にこの夢の話をしたら協力していただけることになり、2005年4月にNPO法人バングラデシュ視覚障害者支援協会「ショプノ」を設立することができました。「ショプノ」は私の母国語で「夢」という意味である。バングラデシュの視覚障害者が夢を持って自立できるような支援をできることから確実にしていきたい。将来は按摩・鍼・灸を広め、視覚障害者の自立につなげていきたい。

日本に来て、このように素晴らしい環境に恵まれ、勉強やスポーツなどを通じて、たくさんの方と出会うことができた。生涯を共にする伴侶も得ることができた。母国で日本人はとても親切だと聞いていたが、実際にその通りだった。人の温かい心が私の力になった。私自身はまだまだ微力だが、母国の視覚障害者の力になりたい。そのために、これからも努力していきたい。

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*次号(11月号)はケニアの研修から帰ってきてお送りすることになります。皆様には12月10日頃届く予定です。